フォーラム記録

TMCフォーラム

「21世紀型ビジネスパーソンの
ライフスタイル」

〜楽しい時間の使い方 
異業種交流会の醍醐味・舛井先生と愉快な仲間たち
 


2001年02月17日(土) 15:30〜17:00
ホテル・ザ・サイプレス 2Fホール

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CONTENTS : 講師紹介・ご案内】 【講演録

TMCフォーラム講師紹介

舛井 一仁(ますい かずひと)氏

<略歴>
1953年 北海道生まれ
1975年 早稲田大学法学部卒業
同年 NKK入社
1983年 ロンドン ギルドホール大学ビジネススクール法学部修士課程修了
1987年 カナダBC州政府通商産業省商務官
1989年 (株)ケービーシーシー代表取締役社長
1995年 NKK退社、国士館大学法学部 助教授
現在 国士館大学 法学部教授・法学研究科(大学院)教授
英国クランフィールド経営大学院 客員教授
国際ビジネス文化研究センター所長
弁護士 芝綜合法律事務所
日本FP協会 運営委員
日本ペンクラブ 会員 他

<プロフィール>
戦略的なライフプランを描き、知的で自由なビジネスライフを送ることを実践するパイオニア的存在。そのことはNKK在職中に会社の費用で留学、自分で出向先を見つけてフィールドを広げ、帰国後に鉄鋼とは無関係な新事業を起こし、子会社として認知させて社長に就任、その合間を縫って神戸商科大学、早稲田大学等で熱弁をふるったところからも窺い知れる。
学生の指導にあたるかたわら国際ビジネス、法律問題、異文化コミュニケーション、ライフスタイル等、幅広い分野で執筆、講演、取材活動を行う。
豊かな国際感覚とビジネスの実績・経験から発する歯に衣着せぬ論調に学生やビジネスパーソン、経営者間の多くにファンを持ち、そのネットワークは今はまさに「グローバルネットワーク」化。そんな中でも時間の許す限り現地現認、ヒューマンコンタクトを心がけ、今日は西(の国?)へ明日は東(の国?)へ。
昨年11月には弁護士登録、12月より芝綜合弁護士事務所にて活動開始。現在週に2日は大学教授、2日はモノ書き、2日は弁護士という3足のわらじを履く忙しい毎日を送っている。
<主な著書・近著>
「EC独禁法ハンドブック」、「国際ビジネス法キーワード」、「カナダビジネスガイド」、「FP用語辞典」、「アフターファイブの達人」、「30才からの知的勉強術」、「世界の街角から〜海外出張の達人〜」、「国際化時代に遅れない勉強法」等、法律・ビジネス、比較文化、ライフスタイル関連の著書および論文・評論多数。
この他、国際ビジネス、比較文化、規制緩和等の関連記事を新聞・雑誌等に掲載。

舛井 一仁(ますい かずひと)氏 講演録
はじめに
 本日は「21世紀型ビジネスパーソンのライフスタイル」という大きなテーマをいただいたので、自分の経験や今行っている活動などを紹介して、何かのヒントになれば良いと思っている。

楽しい時間の使い方
 三つのテーマで話したいと思う。最初のテーマは「時間の使い方」である。時間に関しては「アフターファイブの達人」という本を15年前に出したが、これが今までに私が出した本の中で一番売れた本である。その後に、小石雄一氏が「朝の達人」という本を出し、野村正樹氏が「週末の達人」という本を出した。アフターファイブと朝と週末が出たので、残りは仕事時間しかないということになり、仕事に関する本も次々と出ている。こういう仲間が集まると本を出そうという企画になるので、また本が出るわけである。したがって、まず「時間の使い方」について話したいと思う。
 私は1975年に大学を卒業し、NKKという会社に入社した。この地域には新日鉄があり、あるいは「鉄はトヨタ自動車に育てられた」と言われる中で、当時は「透明の鉄ができるまで技術開発がある」というおだてに乗せられて、鉄も基幹産業として頑張っている状況だった。
 以来、私はサラリーマンをしながら、昨年末に出版した本まで、ちょうど50册の本を書いた。年に3册ほどのペースで出してきたが、別に作家が本業ではない。最初の1册を出した時に感じたことは、フルマラソンを走った感覚に似ていて、1册でどのくらい肩が凝って、どのくらい疲れるのかということを体験すると、2册目からはあまり苦しいと思わなくなる。また、印税が入ればなおさら苦しく感じない。そして、共著になると寝ていても本が出せるような気持ちになり、段々とだれてしまうが、時間はうまく使えたのではないかという気がする。
私の例は特殊かもしれないが、特殊な例として片付けないで、何かのヒントを掴んでいただきたいと思う。

<起業の発想>
 私の勤めていた会社は鉄鋼業だったので、残業も多かったが、留学から戻った時に、会社の中でアントレプレナとして新しい事業を起こしたいと思った。そこで、私はメーカーにいながらコンサルティング会社を作りたいと考え、社長に提案をしたのである。
 しかし、ただ提案をしただけでは、自社の定款にもないし、業種が違うので、黙っていると認められない。また、会社を辞めてコンサルティング会社をつくるのは簡単だが、会社を辞めずに、会社の中に全く新たな小さな光を点して、当時3Kという暗いイメージのあった鉄鋼業に、ユニークな新規事業の方向性を提案することができれば、若い人たちにも興味を持ってもらえるのではないか、色々な意味で懐の深い会社というイメージを抱いてもらえるのではないかと考えたのである。

<8時間で仕事を終わらせる環境の整備>
 そこで、会社を説得するために何をしたかというと、会社にいたのでは出張や仕事が多くて何もできないので、会社にプラスになり、会社よりも給料が多くて、なおかつ8時間で終わる仕事を探した。
これは半年かかったが、当時、輸入比率が非常に高かったカナダの原料炭の輸入先で、ブリティッシュコロンビアの通産省が東京に事務所を出すというジャパンタイムスの募集広告を見て、これならば会社とも関係が深いし、原料炭に関して、NKKはカナダでは新日鉄よりもシェアが大きかったので適していると考えた。それで、ブリティッシュコロンビアのバンクーバーへ行って試験を受け、3年間の時限的契約を、会社に内緒で結んだのである。
 そして、会社に持ち返って、目的を告げ、会社の仕事を3年間離れて東京にあるカナダの通産省で働くが、有用な情報は会社の方に出す、給料はボーナスも含めて100%返却すると提案した。
 且つ、夜6時から自分のオフィスを持たせて欲しいという要望も出した。これはNKKの名前を出さずに、自分の名前で仕事をするが、決して会社に内緒の仕事ではなく、ブリティッシュコロンビアの契約が終わる3年後にはNKKに戻って、責任を持って新規事業の立ち上げを行うということである。これら幾つかの約束事を書面にして、社長と人事部長に提案し、東京都内に夜6時〜9時まで、舛井一仁コンサルティング事務所を構えることができたのである。
 ブリティッシュコロンビアの通産省の仕事は、外国政府の仕事なので、9時〜5時で終わる。公務員の場合には、慢性的に残業があればマンパワーの方から応援にくるという体制があったので、5時には問題なく仕事を終えることができるという環境があった。だからこそ、外国の募集する公務員の仕事を探したわけである。
 このように、9時〜5時はしっかりと働いて、6時〜9時までは自分の事務所で、将来のビジネスの種蒔きと、インキュベータのための色々なアイデアを考え、実際のビジネスも行った。また、これは個人事務所なので、税金は個人の確定申告で行っている。
このようにして、会社をつくった時に、私は会社から一歩独立し、一つの事業家としての気持ちが湧いてきたのである。

<起業と社長就任の仕組み>
 会社には3ヶ月に1度、報告会という形で収益を報告したが、3年経った後には相当儲かっていた。そこで、6時〜9時の3時間でそれだけ儲かったので、フルタイムで仕事をすればかなり儲かるのではないかという数字を添えて、NKKの常務会に出したのである。
 大会社の特性として、一般論で話をすると反論が出るが、数字で示すと反論はあまり出ないので、3年後に会社を起こすことができたわけである。
 ただ、自身でも事業家としての気持ちが高まっていたが、34才の自分が子会社を提案しても社長にはしてもらえないと思ったので、この3年間、自分が社長になるにはどうすれば良いかということに一番苦心した。
社長になるためには、自分が社長でなければ会社の仕事ができないことを全面的に言う必要がある。そこで、会社の業務内容の中に「大学で教授をすること」というものを入れた。当時、NKKには3万5千人の社員がいたが、大学で教えることのできる者は理工系に数名いただけで、他にはいなかったので、私が社長をするしかないということになり、自分の会社ではあるが、出向させてもらったのである。
 当然、私自身は50%を出資し、NKKも50%を出資して欲しいと思っていたが、会社法上3分の2を持たなければ人事権を持てないので、最終的に私が3割、NKKが7割という出資比率に決まった。

<大学で教える方法>
 大学教授に関して言うと、大学というのは不思議な世界である。大学は教授、助教授、講師というグループと、非常勤講師・助手というグループに分かれている。私立大学を例にとると、教授の定年は70才くらいで、年俸が1,200万円ほどである。助教授が1,000万円ほど、講師が800万円ほどで、これが都会の大学の年棒である。
ところが非常勤講師は、1コマ90分の授業を年間に22〜23回教えて、月給が25,000円である。つまり、30万円で1コマを手配するというのが非常勤講師の給与体系なのである。
 従って、非常勤講師が生計を立てるには10コマ程度を担当しなければならないが、一つの大学で10コマは担当できないので、3〜4大学を掛け持ちする。つまり、一つの大学で3コマを担当して、4大学で12コマとなり、はじめて人間並みになるのである。
 ただ、非常勤講師が4大学で3コマ持つというのは、縁があってもなかなかできないが、これは裏を返すと「30万円で自分を買ってくれ」という切り札にもなる。つまり、年間に20回程度、90分間話せるネタがあれば、大学の講師になるのは可能なのである。そうすると、金銭的には、大学は反対をする理由がなく、人脈的にもサラリーマンは派閥がないので、学内からの反対もない。
 そこで、将来、大学に入って専門にできるのではないかという科目を二つほど自分で探して、20回分のスピーチレジュメを用意して、非常勤講師として売り込みをすることになる。
 何もない所に持ち込むのは大変だと思われるかも知れないが、実際に大学へ行くと、掲示板には非常勤講師募集の貼紙が数多く出ており、ウェブに乗っていなくても、ネタは幾らでもある。さらに、大学時代の友人の中で1人や2人は大学の先生になっている者がいるので、そういう人を通じて、自分の専門をアピールすれば、それほど苦労せずに非常勤講師という仕事を取ることができると思われる。
 当時の私は、将来、教授の資格を取るという夢はあったが、それ以前に、会社の業務としてコンサルタントをすることは「教える」ことに結びついているので、教えながら、新たに出てくる卒業生を、自分の新しいネットワークの中で将来的に活用したいという思いが漠然とあった。それが後に紹介する「舛井組」の設立につながっている。そのようなことを考えながら、当時は3大学で教えていたのである。
 このように、大学で教えるのは、年に20週くらいだが、サラリーマンが教える場合は、夏休みや冬休みに集中講議として教えることも可能である。あるいは、仲間と一緒にプロジェクトを組んで4回ずつを5人で教える等も可能なので、大学で教えることは、それほど難しいことではない。

<本を出す仕組み>
 もう一つ、本を書くことに関して言えば、先程、代表幹事から話を伺って、企画として、TMCや有志が集まって本を出せば良いのではないかと思った。
そのように、本に関しては、幸いある程度の冊数は売れるという実績から、多くの出版社が乗ってくれるようになったが、最初は苦労した。
 本というのは、例えば、1,500円の本の場合、印刷経費が約150万円なので、1,000部売れると元は取れるが、実際には流通経費などがあるので1,500部ほど売れると良い計算になる。1,500册を自分たちで買えば良いが、これを売るとなると最初は難しいかもしれない。しかし、色々と手段はある。
 私はカナダのブリティッシュコロンビアの仕事をしていたので、カナダのDoing Business in Canada という本ならば、日加関係の団体やカナダ大使館、カナダ領事館などが買ってくれるのではないかとデザインした。
 アメリカに関する本は図書館や書店に数多くあるが、それは売れるからである。アメリカは、ビジネスをする上で大変重要なマーケットであり、お金もある。しかしカナダに関しては、カナダの大企業ベストテンのうち2、3社を言えるかと尋ねても、ほとんどの人が言えない。日本で一番有名なカナダ企業と言っても思い浮かばない。 自動車関係の方であれば現地の合弁会社を思い浮かべるかも知れないが、マクドナルドのハンバーガーを食べている子供に「カナダのハンバーガーを知っているか」と聞いても誰も知らない。それだけマーケットが小さいわけであり、マーケットが小さいと、本を出す人もいない。そして、売れない本は出版社も出してくれない。
 ところが、大使館とか領事館に「カナダ投資ガイドという本を出す予定はないか」と尋ねると、予算はないが、出すのであればまとめ買いをするという話があった。そこで、日本全国の大使館、領事館、日本とカナダの色々な友好協会、カナダ○○会、さらには経団連から商工会議所までかき集めて2,000部ほど予約を取り、ある出版社に持ち込んだ。そうなると、出版社の方も「2,000部買ってもらえるのであれば自費出版と同じであるから、出しても良い」ということになり、これまでにカナダの本を3册ほど出したのである。
 自分がカナダの本を出して、生計を立てることは、コンサルタントのネタにもなるが、それ以上に本を出すというノウハウを身近に感じて、1册の本を出す時の色々な苦労を、全て将来のネットワークに結び付けるような形で企画を進めてきた。

<月刊誌の編集長として>
 実は、そのカナダの本を出す時に、私はもう一つ別の本を出している。日本の法律を英語で紹介する雑誌がなかったので、Japan Business Law Letter という月刊誌を出したのである。印刷業に関係している人は分かると思うが、16ページを1台として2台程度の、それは薄い本になっていた。
 これも自分で出したというよりも、私は編集長で、友人の弁護士にアドバイザーになってもらい、出版社の友人に本を製作してもらったという、3人で始めたジョイントベンチャーであった。
 なぜこれが売れたのかというと、例えば、外国の企業が日本へ来て「消費税導入」というニュースを見ても、大蔵省などが出す解説は全て日本語の文献なので、手っ取り早く情報を得るためには弁護士に相談をする。しかし、専門家に相談すると4、5ページのものが20万、30万円の情報料になる。コンサルタントをしている人は分かると思うが、データベースの活用の仕方は非常に高いものになる。従って、これが1册2,000円であればマーケットとしては面白いと感じたわけである。
 次に情報を英語に訳すのに費用がかかる。しかし、日本には日本語を英語に翻訳する実力があり、時間もあって、安く引き受けてくれるグループが大学の中にいる。いわゆるオーバードクターと言われている人だが、大学は彼らに外国語に対して非常に厳しい要求を課すので、語学に堪能な人が多く、教授の文献などの翻訳を手伝っている。そのような人たちに翻訳を依頼すれば喜んで引き受けてくれるわけである。
このように、世の中を色々と見ていくと、一緒に仕事ができる仲間が多いことに気がついたので、これを出すことになったのである。
 雑誌を出す中で、色々な人と出会った。書く人、翻訳する人、それを作る人、もちろん弁護士の仲間とも懇意にさせてもらい、一つの媒体を通じてネットワークが広がっていくのを感じた。最後には、アメリカの弁護士事務所から「広告をしてくれれば、英語の内容に間違いがないかどうかというチェックを無料で行いたい」という申し入れもあった。そのような中で、自分としても、次の事業を始めるに当たって、ある程度、自信がついてきたのである。
 本を出すこと、それに対するコストや書き方等、色々とノウハウを積み重ねながら物書きの生活を始めたが、特に、会社勤めをしながら本を書くことにおいて、一番の苦労は時間のやりくりだった。従って、最初は連載か共著を勧めたい。連載か共著であれば量的にも少なくて済むし、1年間書きためると、1册分の量になるケースもある。
 そういう意味で、商業雑誌以外にも、財団法人、社団法人と名の付く公益法人は日本には数多くあり、様々なレポートを会員向けに出しているので、自分の興味のある分野でレポートとして出してもらえるような機会があれば、研究員として契約をして研究助成金をもらいながら、自分の書きたいことを活字で残していくことが可能になると思う。
 このように、物を書く、あるいは、それを活用することによって、人のつながりや広がりを強く感じるという経験をした。
 その後、サラリーマン生活20年を機に、大学の方にウェイトを移そうと考え、5年前に会社を辞めて、今は大学の仕事をメインにしている。

<時間の使い方のまとめ>
  「時間の使い方」を総括すると、当時は、昼間の仕事と夜の仕事、研究員となっていた研究所が3件、教鞭をとっていた大学が2件あり、その間に本を出していた。
 しかし、これらは一度に行ったのではない。ジクソーパズルの隙間を埋めるような形で時間を活用していけば、自分でしたことが目に見えてくる。活字になれば、勿論、目の前にあるし、人に教えると、自分の話を聞いて育った学生が巣立っていくのを見ることができる。
 そういう意味で、辛い分だけ報われることも多かったのではないかという気がする。

異業種交流会の醍醐味
<発展する会の特徴>
 今回、ここの活動の歴史を見せていただき、事務方がしっかりしているので、これだけ続いたのだと実感した。
 私も、フランチャイズが東京なので、東京で色々な勉強会に参画したり、呼ばれたりしたが、事務方がしっかりしていなければ、不動産屋の巣窟のような研究会になったり、セールスをする人が集まって、一度研究会に出ると50〜60万円もする英語の教材を送って来る等、色々な問題が起きた。中には、化粧品のマルチまがいのものもあり、潰れていくものも随分とあった。
 その中で、私が今でも付き合いを続けている会が二つだけある。一つは、知的生産の技術研究会(通称:知研)である。これは、梅棹忠夫氏の書かれた知的生産の本を元に設立された会で、八木哲郎氏が身を粉にして今日まで続けられ、昨年、NPOの法人格を取得した。850名の会員から年間1万円の会費を集め、企業からの若干の寄付を合わせて1,000万円程の規模で運営している。NPOになってからは、もう少し企業系の寄付を募っているらしいが、本当に細々と活動している。
 しかし、長く続いて、支部は北海道から九州まで10数ヶ所にできている。非常に前向きに色々な勉強会を作っていて、米国の公認会計士の資格取得、ハーバードのケースメソッドを勉強してMBAの勉強の準備をする等、熱心に勉強する色々な部会がある。私もその中の一つを手伝っている。
 もう一つは、アーバンクラブという研究会である。これは東京ガス、三菱商事、高島屋、JTB他が出資をして、サラリーマンの交流だけをビジネスにできないかという考えの下に設立された会である。設立して既に10年が経つが、黒字の経営をしている。
 これは、最初、中高年のリフレッシュのための場を提供するという目的でスタートしたが、20代、30代からも参加を希望する声が強まり、クリエイトという名前で若い人が勉強会を作ったり、さらにその下に色々な分科会ができている。勿論、大会社がスポンサーとしてついているので、設備的には素晴らしいものがある。
この二つに共通して言えるのは、事務方に、会員の要望を即座に活動に反映できるスピードがあるということである。
 特に、知研の場合は、トップがほとんど口出しせずに、若いスタッフに全て任せて地区ごとに活動を仕切らせ、自分は必要な時にだけ出るという形で、アクションが早いという特徴がある。
アーバンクラブは株式会社なので、フルタイムで常駐している社員が大勢いる。そして、利益が残るような活動をしているので、ビジネスとしても十分に成り立っている。
 どちらも人気があって継続しているのは、そういうスピード感と、時代の最先端を知的生産に結びつけるというサラリーマンの熱意があるからだと思う。
 これ以外にも参加した会があるが、この二つが印象に残っている。私が参加したのは、NKKとの合弁がスタートして、朝日新聞の「人」の欄に初めて出た頃で、取材が200件ほど来て、新聞、雑誌、テレビ、ラジオなど色々なものに出た関係で、話に呼ばれるケースが多くなっていた。その中でも、この二つは未だに途切れることなく付き合いが続いている。

<私流の交流会の参加の仕方>
 私は、勉強会に参加する時に、一つの目的として、1人の人と仲良くなりたいと考えている。大勢の会でも、なかなか多くの人と知り合うのは難しいので、「自分と波長が合いそうな人が1人でも見つかれば楽しいのではないか」というくらいの気持ちで行くと、長続きする仲間ができるものである。その仲間といつか、何かをしようと話して、Eメール等で付き合いを続けるうちに、いつの間にか、必ずどこかで付き合いが始まるというような付き合い方をしてきたのである。
 それで、何百人、何千人という人と出会ったが、彼等との付き合いを途切れさせないためには、名刺ボックスや電子手帳に名前を入れてしまっては思い浮かべられなくなる。例えば、山田という人の顔を思い出すには、少なくともYAという二つのボタンを押して、名前を引き出すというアクションを取らないと画面に出てこない。
そこで、私はいつも120枚入りの名刺入れをカバンに3册入れて仕事に行く。そして、360人の名刺を電車の中で見ると、5分ほどで全員の名前と顔と思い出が過ぎるのである。
 そうすると、例えば、今朝、自宅にイスラエルのテルアビブの友人から情報が入ったとすると、その情報は、今の私にとっては何の価値もないかも知れないが、360人の中に、例えば、日商岩井の友人がいると、日商岩井はイスラエルと縁が深いので、彼にとっては価値があるかもしれない。そこで、彼等がまだ知らないような情報であれば、その情報を日商岩井の友人に、すぐにファックスやメールで送る。
 そのように、自分の所に情報が滞らないようにして、なお且つ、その日の内に処理をするとなると、電子メディアを利用するようになる。机の隅に名刺をしまってしまうと名刺が価値を生まないのである。
 しかし、360枚の名刺を1週間、1日の行き帰りに目を通すと、1週間から10日後には、名刺のデザインのユニークさ等で記憶に残るので、360人が、今、何を欲しているかが大体頭の中に残る。これを1ヶ月ごとに、名刺を少しずつ入れ替えていくと、360名とはすぐにコンタクトが取れるような関係になっている。これが、異業種交流会の延長上においてネットワークを形あるものにするために、私が今も行っていている、デジタルとは逆行する手作業による方法である。慣れてくれば1日10分で記憶に残るので、私は友人との付き合いをアップデートして、毎日、連絡を取り合うようにしている。
 これは海外も全く同じである。私は仕事柄、各地を飛び回ることが多かったので、海外の仲間ともEメールのやり取りが多いが、例えば、日本で得た情報が彼等にとって必要な場合には、同じようにネットワークを作る。
世界の舞台と言うと風呂敷が大きくなってしまうが、相手は友人である。NKKの時には法務が長かったので、弁護士と出会う機会が多かったが、自分の価値観で友人を作っていくと、その価値観に同調した仲間が増えて、いつ、彼等を紹介しても、いつ、どこで、皆と会っても違和感がない。
 言い方を変えれば、自分の価値観で仲間を選び、公私を少しずつ混同させながら付き合っていくと、自分の紹介した友人が自分の友人に評価されるようになり、自分が眠っている間にも、友人同士が連絡を取り合って、そこでまた面白い話が生まれるようになる。
 つまり、自分が眠っている間に自分の本を人に読んでもらい、自分のことをどこかで語ってくれる仲間が増えれば、情報交換の技術が日々進歩している中では、日本であれ、世界であれ、もっと身近なものになる。
大事なことは、名刺の数や金額ではなく、そこで出会った人と、将来、何か楽しいことをしたいという意識、できれば一緒に仕事をしたいという気持ちで付き合っていくことである。そのための舞台づくりを自分が中心になって進めると、いつのまにか、とてつもなく大きなものに広がっていくような気がする。

<異文化交流から学ぶ異業種交流のノウハウ>
 私が海外との出会いを最初に感じたのは、ユダヤ人との交流だった。ユダヤ人はニューヨークやロンドンに非常に多く、伝統的に自分たちの国を建設することに対して苦労してきた国民なので、資格に頼る習性がある。どこの国でも通用する資格と言えば、医者と弁護士、あるいはエンターテイメントの世界だが、従って、この3分野にはユダヤ人が多い。
 私も法律に関係していたので、ニューヨークや西海岸に弁護士の友人がいるが、やはりユダヤ人が多かった。彼等と仕事をする時、仕事の上では相手がユダヤ人であるとか自分が日本人であることは意識しないが、仕事を終えて一緒に食事をするために家に招かれると、話題の2〜3番目には「私の娘はホロコーストについて中学校で調査をしている」というような話から始まって、ユダヤ人のユダヤ的なところを感じる話題になる。そうすると、自分でも勉強したいと思う事例がいくつか出てくる。
 その中に、失われた10士族、(あるいは12士族とも言われる)うちの一つか二つは日本に来ているのではないかという話があるが、ユダヤ人と日本人の関係に興味を持って、自分の中のユダヤという一つの軸を作れば、広がりの中で色々な情報が引っ掛かってくる。
 今、私はイスラエルの仕事を随分と行っているが、イスラエルに自由貿易加工区を作ろうという活動をしていた時には、「イスラエルに対して、真剣に考えている日本人がいる」という話が伝わり、ラビン首相から激励の手紙をいただき、大使館の方からも応援していただいた。
 このように、ユダヤ人との交流を通じて、そこから世界を見るようになり、私は目からウロコが落ちるようなヒントを幾つも得た。
 しかし、民族の違いや彼等の苦しみを知ると、何か事件が起こる度に気が気ではない。オクラホマで政府の建物が爆破されたと聞いた時は、その中で私の知り合いも働いているので非常に心配した。このように、世界中に仲間が多ければ多いほど、仲間が事故や事件に巻き込まれないかと心配も多いが、心配よりも喜びの方が何十倍も多いように思う。
 つまり、自分にとってユダヤは一つのキーワードであり、40代になって、やりたいことを設計し、ライフデザインを考えた時に大きなウエイトを占めたのである。
 この目的意識から、イスラエル関係、ユダヤ関係の交流会、あるいは異業種交流まではいかないが、ハイテクミッション等は、私が交流会を主催することもあった。

舛井組の設立背景と活動
<情報交流の場「舛井組」の設立>
 このように、少し忙しくサラリーマン生活をしていた頃に、本日の事務方をされている樋口氏に出会ったが、その他の大学で教えていた人たちも社会人になってから、また会うようになったり、教え子同士の結婚では仲人を頼まれたりすることが多くなった。
 そういう中で、卒業生同士でネットワークを作るのも一つの勉強会になると考えたが、社会人になると、皆、色々な会社に就職をして、各々の分野で活動し、時間的な余裕もなくなるので、情報交流の場という意味も含めて「舛井組」なるものを作ったわけである。
 「舛井組」は、数では早稲田が多いので、東京で活動をしているが、100人ほどのメンバーで、旅行や食事をしながら勉強会を中心とした活動をしている。

<沖縄の旅で得たもの>

 活動の一端として、大田知事の頃の沖縄へ行ったが、組員は20代前半ながら名だたる企業の社員ばかりだったので、単に沖縄へ行って酒を飲むだけでは能がないということになり、知事への面会を申し込んだ。しかし「舛井組」では勘違いされるので「沖縄投資環境視察団」という名称で訪ねたところ、大変に喜ばれた。勿論、沖縄で得た情報は全て、各々の組員が会社へ持ち返り、然るべき所へ話をしてもらった。
 沖縄には頻繁に足を運ぶが、それも、教え子が、沖縄民俗音楽の草分けと言われる照屋林賢氏率いる「りんけんバンド」のマネージャをしていた関係からである。
 本土では米軍基地問題について色々と言われているが、実際に沖縄の那覇から名護の方へ上がって行くと、西側の海岸の美しい所は全て基地になっている。日本全国にある米軍基地の75%が全国の1%の面積の所に集まっており、あれを実感すると息が詰まるように感じる。
 そこで、その基地を仲間に見てもらい、閉塞感を体感してもらおうと考えた。さらに、旧海軍司令部壕を見学し、その石碑につづられた「日本国民に対して、未来永劫に渡り、沖縄県民に対しては格別の配慮を賜ることを願っている」という内容の最後の三行を見ると、今まで能天気で遊んでいたのが吹き飛んでしまうようである。
そのように沖縄の実態を知るポイントになる所は押さえているので、遊んでばかりではないが、4日間の滞在の中でほんの1時間のことなので、あまり偉そうなことは言えないかもしれない。しかし、自分たちで何かを印象に残し、目的を持って遊ぶことを「舛井組」では実施している。

<「舛井組」の発展>
 いずれもっと大きくなるかもしれないが、それよりも問題は中身であり、私自身も海外で勉強になったことがある。
 メンバーの中のF氏は医者だが、「ラボで一生終わるのはつまらないぞ」とけしかけたところ、この3月に病院を辞めて、アメリカに留学した。
 逆に、F社にいるN氏は、ある日「辞めたい」と言って来た。しかし、同社は「世界一の中小企業を目指す」という変わった哲学を持った会社であり、大企業という意識があまりなくて、フットワークの軽さを売りにしているので、私はN氏に「辞めるのは簡単だが、中で何かできないのか」と一喝した。
 そこで、彼は、F社の合弁会社であるシリコンバレーの会社へ行って4年目になる。今は、MBAを取りたいと言っている。
 K氏はT社のPRマンだが、「一生このままで終わりたくない」と言って、会社を辞めてニューヨークへ留学した。その後、アメリカのPRエージェンシーに就職し、向こうで採用されて東京に帰ってきた。
 これらは一部の例だが、このような活動をしている。組の集まりは年に4回と決めていて、東京でも行うが、その中で、色々な人たちが年とともに活躍するようになった。
 O氏は新聞社に勤めていたが、イルカの写真家として有名になり、ついには新聞社を辞めて、現在、プロのイルカの写真家として世界中の海に潜っている。彼も必ずこの会に出てくれるが、新しい本を出したり、個展を開いたり、報道写真の賞もとっている。
 このように、活躍している人が出てくると、刺激を受けるし、また、幸い似たような業種がないので、異業種間の交流会としてはうまく運営されている。
 また、組で大磯に別荘を買うという計画も立てている。

<全員が上昇志向>
 現状よりも何か違ったところで、違ったもの、もっと広いものを見たいというのが全員の共通した考え方であり、それに賛同する人はいつでも大歓迎である。
 組の活動は旅行と総会が中心だが、異業種交流会としてはユニークな活動ができれば良いと思っている。

<交流活動の重要性>
 本日のテーマは、時間と異業種交流と楽しい仲間ということだが、私自身も家庭の時間を大切にしながら、外で活動する機会が多いので、できれば家族も活動の場に立ち会ってもらい、自分の活動の一端を見てもらえるように家族に話をしている。
 海外からの旅人は、週末は私の所に泊まってもらう。その中で、新たな仕事の関係ができれば幸いだが、そうでなくとも、仲間として助け合えたり、将来的に子供が互いの家を行き来するような関係になれることが一番大切だと感じている。
 これを強く感じるようになったのは、日本の役人が、海外に行く時の話を聞いてからである。役人は非常に重要な交渉を行うが、そのような重要な交渉を行う人の席はエコノミーである。そして日曜日に出発し、時差の関係で日曜日に到着して、月曜日、火曜日と仕事をして帰ってくる。
 2泊3日で当然だという人もいるかもしれないが、交渉は日本の将来を左右するような非常に大きなテーマであることが多い。その交渉をする人がファーストクラスで行ったとしても、国民から文句は出ないと思う。そういう時こそ、金曜日ぐらいに向こうへ行って、オフレコの話もあると思うので、事前に交流する相手と会って、生きた情報を集めると良いと思うが、それができにくいようである。
 ところが、ECの委員会やワシントンから来る人は、言語的に壁がないこともあるが、非常にプライベートな付き合いを大事にしている。例えば、EC委員会の人の娘が、ワシントンに留学していて、アメリカのUSTRに勤務している人の家に下宿をしているといった話が飛び交っている。互いにビジネスの中心地で、学生にも人気がある所だが、そのようなキャリア同士の交流を頻繁に行っているのである。
 一方、日本の場合は、1年〜1年半でキャリアが異動するので、1ヶ所に腰を据えて、ネットワークを駆使しながら深い付き合いをするという面が欠けているように感じる。
 我々は民間の立場だが、各々の時代の横のつながりが、結果的には、色々な摩擦や誤解を防ぐことになるという意味で、そういう大事な交流があるのではないかと思っている。
政府に期待するのは難しいかもしれないが、それにしても、あまりにも優秀な官僚が瞬く間に異動してしまう。このように、情報の連続性さえ疑わしい中で、人脈の連続性などあるはずもないということになると、もっと民間レベルでモニターをする等のシステムが大事になるではないかと思うのである。
 それを支えるのは、多分、同じ会社の中の同期会よりも、例えばTMCの横のネットワークや、個人的に海外で出会った人だと思う。そういう人たちが年とともに昇進すると、意見も通るようになるので、そのような人を大事していくと、10年後にはTMCのレベルはとてつもなく高いものになるはずである。
 個人のネットワークを大事に育てる、そしてそれを互いに無料で出し合うと、例えば、70人の仲間が100人の仲間を連れてくれば、それだけでも7,000人のネットワークになる。それがうまく結びつくようなものは何かを考えることが大切であり、もし、私がTMCに何らかの関わりを持つことを許されるのであれば、パソコン上の連絡手段も大事だが、それ以上に心に残る、あるいは、手にとって持てるもの、紙媒体のようなもので定期的に交流や発表ができる仕組みを考えたい。
 そういうことから、「舛井組」も「知的生産の技術」研究会も本を出すようにしている。自分たちが活動をしなくても、本には「足」が付いているので、自分たちが寝ている間にも世界中を駆け巡ることができる。従って、本日はそのような提案もさせていただきたい。

21世紀のライフスタイルを構築する手法
 「21世紀のライフスタイル」という大袈裟なテーマになってしまったが、20世紀が終わり、新しい時代が始まったので、リセットするにはいいチャンスだと思う。
リセットをする中で、例えば、TMCにおける自分のポジションや役割を考えた時、まず、モチベーションを高めると思うので、それについて、私が行っていることを一つ紹介したい。

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